友人が私に聖書からたとえ話をしてくれて、ふと、思いました。
イエス・キリストがある家で人々にお話をされていました。その家には、二人の姉妹がいて、姉はイエス
をもてなそうと、一生懸命料理を作りバタバタしていたのですが、妹はイエスの足元に座りお話に聞き入っているので、手伝うように呼ぶと、イエスは
自分の話を聞くのが、何よりのもてなしと言われたとか言うようなお話でした。
これは、そのまま、介護に当てはまるのではないでしょうか。
食事はこうしてあげなければ、部屋は、衣服は、排泄は、
介護はすることが山ほどあります。休日に、父や母の元で過ごす時間より、父や母のための買い物などに結構時間が取られてしまいます。それは、必要な事なのですが、本人からすれば、
そばにいて欲しいのですよね。
ヘルパーさんの連絡ノートを見て、部屋は汚れたまま、必要な買い物もせず「
食事も起きてくださいませんでした、外出も嫌だといわれました、トイレもいいと言われました。体を拭くのも嫌だといわれました。沢山、お話してくださいました。」と書いてあると、思わずムッとします。確かに、ヘルパーさんがしてくださらなかった事は、こちらがしなくてはならないし、何のために来て頂いているのやらと、思うこともあります。でも、父や母からすれば、
話し相手をしていただけるのは、本当に楽しい事なのです。
父が手術をした時、高齢で行うとしばらく錯乱状態が続くと言われ、確かになかなか落ち着きませんでしたが、父に歌を歌わせると元に戻っていきました。若い頃の歌です。同様に、母でも自分の娘時代の話をすると、
声が大きくなり、表情も生き生きとしてきます。
自分のゴールデンエイジの話は、治療となるのではと思います。
逆に相手をしてもらえないと、自分に対しネガティブなイメージが積もっていくように思います。思考も制限され、欝になっていきがちです。
同じ事を繰りかえして言いますし、同じ質問をしますし、文句が多いし大変です。でも、
相手は会話する事を楽しんでいるのだし、聞いてもらえるのが嬉しいのだから、
あまり内容にこだわらず、小さい子供の相手をするのと同じように、相槌を打つのが一番だと思います。
「こうでなくては」と一生懸命になりすぎると、大切なものを見失うのかもしれません。愛している人たちを喜ばせるのは、方法は一つではないという事に気づかせてくれた友人に感謝、です。