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2007年01月21日

母は母

実家の母はグループホームにいます。

脳梗塞をわずらってから、少しずつアルツハイマーが進み、しっかり者と自他共に認める母は随分辛かったと思います。努力家でしたから、幾ら努力してもどうにもならないことの前にはいらだちも相当あったようです。
その頃、私は自分達の暮らしを楽しんで、介護をしなくてはならないという心構えは全くありませんでした。「えっ、なんで???」と言う感じでした。まず猜疑心が強くなったので「触らぬ神に祟りなし」と逃げ腰でした。ただただ、母を楽しませることを考えて、和ませるようにとだけ、心がけていました。

本当はもっともっと構って上げればよかったのでした。都をどりに連れて行こうと切符を買いにいったら、それだけの事をとても喜び「又頼むわ」と言ったのに、忙しくて、たったそれだけの事、近所を一緒に歩いてお茶をするということが、出来ないうちに、母の方は進行して行きました。
被害妄想でよく掛かってきた電話が、「苦しいから来て」という電話に替わってきました。きっかけは、父の入院・手術でした。弟は仕事は外回り、終わるとスポーツクラブという生活で、母は一人ぼっちになってしまったのです。

毎晩父の病室に行き、帰りに実家に寄っていたのですが、父の手術が随分先だとわかってから、やはり、食事を待つ主人のことを思い、母のところには毎晩行かなくなったのですが、ある夜行くと、あの気丈だった母が泣き出して「やっぱりね、寂しいのよ」と行った時、辛かったです。私にも、生活があるし、母の気持ちも判るし。
そして、来るべき時が来ました。父の手術の前夜母のところに寄ると、母は事態が全くわからなくなっていました。幸いずっとではなく、なんとかしっかりしている時もあったのですが、だんだん無くなっていき、姉のところに洗濯機の使い方を聞いてきたりするようになり、自分の家が、自分の生まれた愛媛の実家と思うようになってきました。

夏の夕、父と出かけた母が行方不明になり、激しい夕立の中母はどこでどうしているだろうと胸が張り裂けそうでした。電話がかかり母を救急車に乗せたりも繰り返しました。日赤に入ったとき、母は「蛸壺型心筋症」というものだと判り、心療内科の診察も受けだしたのですが、その後近くの病院に替わっていただくようになった薬が強すぎたのか、母はぼんやりするようになりました。
母が食事をとっていないとデイサービスからケアマネさんに電話してくださり、ケアマネさんがお医者様に連絡を取ってくださって、母は入院しました。環境はいい病院でしたが、母は膀胱炎も併発して歩行にふらつきがあるのにトイレに行こうとするため、車椅子に拘束されている事から、病院のケアマネさんのような方と連絡を取り、母がグループホームに入ったようなことです。

先日母の所に行くと、寒がっていたので私のコートを掛けてあげると
「重いのでは」
といいながら着てみたら
「軽くて暖かい」
と言うので、
「鏡見たら。可愛いわ。よう似合っている」
と言うと早速観に行って、かなり気に入ったようでした。
「お母ちゃん、着たらいいわ」
と言うと、少し考えていたのですが
「あんたが風邪ひくし、来て帰らんと」
「ほな、今度同じの買うて、お母ちゃんに持ってくるわな」
と言うと
あんまり、要らんお金使うもんやないで」
と叱られてしまいました。

認知症とはいえ、しっかりしていると笑えてきました。母はやつぱり、母です。
それに欲しいのに私が帰りに寒いと辛抱するなんて親ですね。

私が親とは有り難いものだと知ったのは、親が弱ってしまってからでした。もっと前にそう感じることが出来ていたらとか、もっと早く介護について自覚が出来ていたら、と、どうしても自分を責めてしまいます。でも、本当にそうしていたらこうはならなかったはずです


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Posted by tao  at 02:26 │Comments(0)実家の母の話

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